「し止め」と「する動詞」            吉崎柳歩


 一般に「し止め」は良くないと言われる。現代では動詞「する動詞」の連用形である「し」で止めるのがいけないのだと教える入門書が多いが、これは本来の意味とは違う。

 私が昔学んだ、NHK学園編、鈴木如仙氏執筆の『川柳必携』に詳しく解説してあるが、し止めとは語幹が一字の動詞の下五連用一字止めのことで、「する、居る、来る、着る、似る、見る、出る、寝る、得る、射る、干る、経る」を連用形で止めた場合のことを言う。だから「する」の場合は「し」だが、その他は「い、き、き、に、み、で、ね、え、い、に、ひ、へ」である。

叱られた夜は寂しく一人で寝
四十年あっという間に戦後は経
なども含めて「し止め」なのである。

 これらは古川柳に多く見られた形で本来はこれらを「し止め」と言ったが、日本語の進化と熟語の活用で、現代川柳ではほとんど見られなくなった。
 「する動詞」とは、名詞に「する」を付けると動詞になるもので、「勉強する」とか「賛成する」など数多くある。ただし、「鏡する」とか「机する」などとは言わない。なんらかの動作、行為を表す名詞に限られる。この「する動詞」は古川柳には少ない。あることはあるが「し止め」としては指摘されていない(と思う)。明治以降になって「我慢する」「愛用する」「拍手する」など、「する動詞」が激増した。
 その結果「し止め」は、本来の意味ではなく、この「する動詞」の連用形、例えば「勉強し」や「賛成し」などで下5を止めた場合を「し止め」と言うようになってきたのだろう。 
  
 古川柳の時代には「する動詞」は少なかったので、「報告し」は「知らせに来」、「絶食し」は「食はずに居」など、助詞を介して表現したのだろう。
 「勉強する」は一つの動詞だが、「勉強をする」の「する」はこれだけで動詞である。これを「勉強をし」と表現することが本来の「し止め」である。
 とは言っても、現代の意味でも「し止め」が好ましくない止め方であることには違いはない。そもそも連用形で止めることが一句独立した現代川柳には好ましくない、という見方もあるが、これには少し疑問がある。岸本水府を始めとする六大家の時代には、むしろ連用止めのほうが多いほどである。 

電熱器にこっと笑うようにつき 椙元紋太
長靴の中で一ぴき蚊が暮らし 須ア豆秋 

俳句は完結するが川柳は自立しつつも完結しない、との説もある。連用形の方が余情、余韻をより醸し出す場合もある。「する動詞」の「し止め」も、すべて駄目だとは言えないと思う。する動詞もいろいろあって、「する」を「強い動作を表す名詞」に付けた場合、例えば「奔走する」の連用形「奔走し」、「号泣する」の「号泣し」などは違和感が少ない。一応、「し止めは良くない」と憶えておくほうが無難ではあるが…。また、「する」の「る」を省略して「号泣す」なら問題はない。