矢須岡信 プロフィール

本名 安岡 新平(やすおかしんぺい)

昭和4年    伊勢市に生まれる 

昭和18年   海軍予科練入学 海軍少年兵として1年間過ごす

昭和21年   K製鋼所宇治山田工場(現・S電機)入社 42年間を過ごす

昭和29年   定時制伊勢実業高校(工業科)入学 25歳

昭和34年ごろ 川柳に出会う

昭和46年〜  三重県文学賞始まる

       (選考委員)山岸志ん児→矢須岡信、坂倉広美氏が加わる。

        平成12年をもって文学新人賞の選考は終わる

昭和50年   番傘川柳本社同人

        三重県川柳作家連盟発足 理事

昭和55年3月 三重番傘川柳会会長就任 

昭和60年〜平成11年 三川連理事長(14年間)

平成6年10月  第9回国民文化祭みえ・川柳大会開催 津市センターパレス

         事前応募者2,456人・当日参加者423人

平成9年6月8日 全日本川柳大会開催 県総合文化センター 当日参加者660人以上

平成12年   句集「数え歌」発行

平成14年5月〜 三重番傘誌に「多加倉 健」現わる(数ヶ月)

平成20年10月 三重番傘会長辞任 (新会長 伊藤忠昭氏)

平成21年    キリスト教入信

平成23年8月 逝去  82歳 教会にて葬儀

昭和57年〜平成20年 28年間に亘り朝日新聞「カルチャーみえ」川柳選者

 

信さんのご両親

母は福島県いわき市生まれ。(明治29年生まれ)

  大正8年23歳、東京へ…そこで関東大震災に出会う。

  流れ流れて伊勢に着き父と結婚。

父は再々婚。ハンサムだったそうである

信さんのご兄弟 異母姉妹

信さんと戦争

信さんのご家族 奥様との間に二人の娘 五人の孫

信さんと信仰 奥様はクリスチャン

その他(エピソード)電話魔・こだわり・エッセイ・茶目っ気・多加倉健 etc

矢須岡信さんのことをご存知の方はどれくらいいらっしゃいますか?本日のタイトルは清水先生が付けてくださったのですが、伊勢から川柳を吠えた男…実にうまくつけられたものと思っています。

 

資料2ページの写真をご覧ください。まず、左の一句

数え歌天の裁きは順を追う は、信さん(川柳では名前で呼ぶことになっていますので、この後も信さんと呼ばせていただきます)が昭和59年、番傘本誌で初巻頭に採ってもらった句だそうです。これが元で平成12年の春、初出版された句集名を「数え歌」にされたそうです。人は生れて死ぬまでにいくつの数え歌を詠うのであろうかと句集のあとがきにあります。その下の旧影の凛々しい信さんは、15歳のときの写真だそうです。

この写真を句集に使ったのは、二枚目ペンネームにふさわしいと考えられたからでした。

清水先生は本名ですが、矢須岡信さんは、雅号、ペンネームですね。本名は、右上を見ていただいても分かりますが、安岡新平さんといいます。けっこう垢抜けたいい名前だと思いますが、信さんはあまりお気に入りではなかったようです。

当時、映画スターに「佐分利信」という人がいたそうですが、その佐分利信にあこがれて名づけたそうです。矢須岡は、名前が一文字だから、佐分利にあやかって三文字に増やしたのでしょう。ペンネームと信さんの容姿にいささかギャップがあるのを、自他共に認めておられたようですが、佐分利信のようにぬーぼーとはしておりませんとは、同じく伊勢の川柳作家橋本征一路さんの談です。佐分利信ってぬーぼーとしていたのですか?信さんはどうしてそんな人にあこがれたのでしょう。

それと、右上の写真ですが、ここに載せるために、いろんな本や名鑑などを繰って見ましたが、すべてこの写真なのです。他になかったのか、この顔が一番お気に入りのひとおしだったのでしょうか。

 次に右下の二枚の写真は大切なお母さんの写真。親子は似るといいますが、まるで一卵性の双子のようなお二人につい笑ってしまいそうになりました。お父さんはハンサムだったとどこかにありましたが写真は残念ながらありません。たぶん信さんは負けたくなくてお父さんの写真をわざと載せなかったのではないでしょうか。

 

資料の一ページ目をご覧ください  

昭和4年、伊勢に生まれます。信さんを生んだお母さんは、福島生まれの人で我慢強い方だったそうです。信さんはお母さんのことを話されるとき、すぐなみだ目になられ、母親思いだったんだなと思いました。信さんには母親が違うご兄弟がおられたようで、その分もお母さんはご苦労をされたようです。    

 お母さんは、自分に学が無かったため信さんに「どんなことをしても山中(旧・宇治山田中学)へやってやるから行け」といってくれたそうです。今思えば複雑な家庭環境の中にあっての、母の有りがたい言葉だったと思ったそうです。母の願いどおり山中に入学しますが、ちょうど太平洋戦争の真っ只中でした。

 当時、各学校から陸海軍の少年兵 志願を何名出すかを競う時代だったそうです。信さんは恐らく迷うことなく志願したのでしょう。15歳で海軍乙飛行科予科練に入学されましたが、その時のお母さんの気持ちはどんなだったことでしょう。先ほどの少年の写真はこの予科練時代の写真だったようですね。ちょっと横道にそれますが、山中は今の宇治山田高校、山中出身のメジャーな人には、元運輸大臣もつとめた田村元(はじめ)氏がいました。

一年で終戦を迎え、海軍少年兵から帰ってからは、すぐ就職をして一家を支えていかれます。就職先は鉄を溶かす仕事でしたが、機械の図面をみる学力が無ければダメで、勉強をしなければ人に遅れると気付いて、25歳から定時制高校に入学されます。

その定時制高校で国語を教わった教師に、何年かして会ったとき「なんで川柳なんや、なんで短歌とか俳句をしなかったんだ」といわれたそうです。

でも、信さんはそのとき川柳に出会ったのも神のなせる業だと思ったそうです。川柳の神様が信さんに降りてきたと言っても過言ではないようにおもいます。

信さんが川柳の道に入られた切っ掛けは、約半分以上の人がそうであるように、新聞投句でした。当時田中民矢という人が選者をつとめておられた、「毎日柳壇」だったそうです。

 

ここで少し三重県の川柳界のことを話します。三重県には、現在8つの柳社があります。北から、四日市、亀山、せんりゅうくらぶ翔、鈴鹿、川柳三重、三重番傘、番傘桔梗川柳会、ふりこの8社です。そのうち半分は番傘系の会ですが、信さんが指導されていた三重番傘川柳会は津・松阪・伊勢と広い範囲にわたり活動をされていました。昭和34年に川柳に出会って、50年に本社番傘同人になり、その後55年三重番傘の会長になりました。番傘は日本一会員数が多い会で、各都道府県に支部のような会がたくさんあります。川柳といえば番傘だった当時の信さんは超花形だったといえます。

年代が前後しますが、プロフィールでお分かりの方もあるかもわかりませんが、46年には第一回三重県文学新人賞が設けられているのに、川柳連盟が発足したのがそれより4年もあとなのです。連盟結成に当たっては、山岸志ん児さんとふたりでもの凄くご苦労があったようです。そのことを、連盟結成時の思い出として三川連会報誌に書いておられますのでちょっとだけ紹介します。  

「第一回三重県文学賞の川柳部門は橋本征一路氏が得られた。これより、2回3回と続けられる新人賞への対応にあたり、当時の「芸術文化協会」より川柳部門の窓口に当たる機関を作ってほしいとの依頼があった。当時連盟は無くても協会の川柳部門議員としては、山岸志ん児さんと長島正直さんでした。正直さんは当時もう70歳に近く、信さんに任すといわれました。そこで山岸志ん児さんに理事長になってもらい、副理事長に松浦寿々奈さんの案を持って、のこのこ寿々奈さんの家に出かけたものである。それが寿々奈さんの逆鱗にふれたことは言うまでも無い。 寿々奈さんの返事は、

「信君、これは私が若造の志ん児の下に従うということか」でした。

思い起こせば志ん児氏も私も若かったのである。とありました。かくして50年に出来た三重県川柳作家連盟初代理事長は松浦寿々奈、二代目に福田昭人、そして三代目に信さんが理事長になったのはそれから10年後のことでした。

信さんが理事長になられて始めての三川連の大会の日に理事長就任の挨拶をされたのですが、壇上からいきなり言われました。「詩は詩人、短歌は歌人、俳句は俳人、なら川柳だけなぜ川柳作家など言わなくてはならないのだ、川柳は柳人でいいではないか」「川柳作家なんておこがましいから作家は廃止して欲しい」とそれこそ吠えました。会場の反応はあまりよく分かりませんでしたが、それ以後、ふつうに三重県川柳連盟となったところを見ると信さんの遠吠えが通ったようです。  

そしてその頃には三重県文学新人賞も信さんが選考委員に代わっていました。そこで清水先生とも接点がおありだったのだと思います。信さんはせっかく佐分利信から名前をもらったのに、「清水さんと同じ名前では分が悪い」とよく言われていました。清水先生は永遠のライバルだったようです。

 

三重県文学賞は当時は新人賞がメインでした。新人賞を貰うには、それほど活躍をしてなくても各会からの推薦があれば、立候補できました。私は鈴鹿では入ったばかりと言うだけのホープでしたが、当時の会長の美津子さんに推薦状を書いてもらってだしてありました。

当時、私も含めて40代の若手が数人いました。忘れもしません、名張の大会で出会った信さんは「たかこさんよ、あんた児童文学で新人賞貰ったほうが早いかもわからんで、川柳は無い言うても年功序列もあるからなあ」と言ってくれました。当時私は長ものにも手を染めていました。鈴鹿の文芸賞で賞をもらったのを信さんはご存知でした。

なんと返事をしたかはあまりよく覚えていませんが、始めたばかりと言うのに多分あつかましいこっちゃと思われたのではないでしょうか。それから4年案外早く順番が来たのか、結局49歳で貰うことが出来たのですが、その表彰式のこともいろいろ忘れられません。二年ほど前までは副賞に金一封が出たそうですが、金一封はなくなって信楽焼きの壷に変わっていました。ちょっとがっかりでした。でも、その壷は今も大切に使ったり飾っています。

お金だったら跡形も無く消えていることでしょう。表彰式当日はコーヒーとケーキの祝賀会でしたが、その席で、他の選考委員の先生方は「受賞した人を褒め称え、この作品が良かったなどスピーチをされたのに、信さんはよほどずっと腹にためていたのか、いきなり「短詩型の順番が、詩・短歌・俳句・川柳となっているのが気に食わない。川柳を軽く考えている証拠だとぼやきまくり、私のことはそっちのけでした。祝賀会が終わって、帰りがけ、頭を冷やし気がついたのか何度も謝ってくれましたが、そのときも信さんらしいなと思いました。    

何かにつけて気にいらないことがあるとぼやいておられましたが、正直な人だったのだと思います。

信さんは、こと川柳に関してはいつも真剣実直ながら、神経の細やかさは類をみなかったそうです。気になることがあると、電話なり、即来訪をされたようです。

3ページ目の資料では、川柳すずかの「人と句」コーナーで私が信さんのことを取り上げさせてもらったものです。  

電話魔だったことは、多くの方がうなずかれます。それほど接点の無かった我が家にも、なんどか電話を頂きました。

「人と句」 にも書いてありますが、受話器を取るといつもくぐもった声で「あのサナア…」の伊勢弁から始まりました。なんでもない、小さな気になる点を「気になるとどうもほっとけやんたちでな」と、言われれました。

例えば、うちの会の編集なんかでも、とても細かいところに気がつかれ、それを言ってきてくれるのでした。あるときは毎月柳誌の巻頭言を、今は一ページ3段組にしていますが、以前は段なしで長々と1ページに文章を書いていました。「たかこさんよ、あんた文章はうまい、感心するわ、とまず誉めてくださって、せやけど一行が長くて読みにくいんや、読んでるうちに、行が分からんようになるんや、なんとかならんか」でした。普通、こんなことを脇から言われたら、ごチャごチャうるさいなとおもうところが、なぜか自然と聞けました。押し付けがましさがあまりなかったからでしょうか。その後3段組にして、目次もつけ、おかげさまですっきりしました。

 

信さんは、男気があるというか、男が男にほれる系が似合う人だったように思います。つまり任侠の世界ですね。義理や人情にあふれた本当に人間くさい、川柳そのものの人だったと思います。

プロフィールの、平成6年の第9回国民文化祭、平成9年全日本川柳大会ともに全国規模の大イベントでしたが、信さんは三川連の理事長としてそれは張り切られたようです。国民文化祭のほうはとんと覚えていないのですが何しろ鈴鹿川柳会に入って一年後でしたから、でも全日本の大会は少し覚えています。

信さんは68歳、男としても、脂の乗り切った、元気の固まりでしたね。 

 資料の4ページ目で、新聞の切抜きを一枚入れましたが、ちょと端が切れていますが。川柳を見つめた28年、朝日新聞の選者を交代されるときの記事です。信さんの川柳の思いが載っていますのでまたあとでお読みください。

その下の「川柳三重番傘」のある日のエッセイの切抜きを貼り付けました。老いを遅らせる方法が面白く書かれています。

 信さんのエッセイは、反戦ものや健康ものが多くて、いつも心が支配されていたのかなあと思いました。

そんな信さんも70歳代になられてから、いろいろ身体に不調が見られ、少しずつ弱っていかれました。

何千、いや一万句を越えるかもしれない句の中から、たった55句ですが抜き書きしました。これらのほとんどが句集「数え歌」の中に入っていましたので、信さんが気に入っておられた句だとも思いますし、信さんらしい句だと思います。これから、句の鑑賞をしながら、信さんのことを知っている範囲で話して行きたいと思います。(資料最後にあります)

 

資料5ページ目 第一句は句集の巻頭の句にあげられています。これから話す一部は、今日別にお配りした資料に載せてあります。ただし一部だけです。

莫迦な自分にずいぶんと教えられ 

 まず、この句の「莫迦」は普通はウマしかの馬鹿を使いますが、漢字一つにも信さんはとても厳しい人でした。これは、ずっと以前、柳友の宮村 典子さんが三重番傘の編集の手伝いをされていたとき、私も遊び半分で、近詠の校正に付き合っていました。そのとき、難しい漢字や旧仮名遣いはすぐにパソコンから出ないので、私が「現代漢字ではダメなの」と聞くと典子さんが「あかん、信さんは句主の思いがこもった漢字のままで編集をするようにいつもおっしゃる」と言うのです。この句を見たとき、それを思い出しました。漢字にも思いを込める一途さがわかります。

莫迦な自分に教えられる  川柳は客観の文芸だと言われていますが、自分のことを詠むのに主観だけでよむと、ただのつぶやきになって面白くありません。

ああ、なんて自分は馬鹿なんだろう、ただそう言ってるだけの句が、このように変身をするのです。

ほかにもこの莫迦の句がありました。それは

・考えてみれば人間みんな莫迦 この句を自分で解説されていますが、人間はあまり賢い生きものではないような気がしている「核」を捨てきれないことがそれをものがたっていると思いますとあります。

信さんは心の底から戦争を憎んでいました。そして「原発」に対してもやるせない思いでおられたようです。二年前の東日本大震災の後、三重番傘の近詠に「フクシマ」を気にかけた句がありました。福島はお母さんが生まれた土地、とうぜん親戚がおられたようでその人たちを気遣う句がありました。先の見えない不安感によけい心も身体も弱っていかれたようです。

 次の句に移ります

こたえたなあライバルがハンサムで  

足の短い僕にダンスはセクハラだ

 この二句はちょっぴりご自分を卑下されています。自分の気持ちをさらけ出しています。

信さんは、こんなこともよくおっしゃいました。素人の方に「川柳をやっています」というと必ず「川柳は面白いですね」と言う答が返ってきます。なぜ十把ひとからげ的に面白いとされるのでしょうか と。川柳は人間を詠む、人間の思いを詠む人間諷詠だとされていて、ただ面白いのが川柳ではないのですと。今読んだ二句は、くすくすと笑ってもらいますが、信さんはただ面白くしようとしたのではなく、悲しい面白さを詠まれていると思うのです。

まる見えになるから少しお黙りよ

 これはだれかに言っているのではありません。信さんが自分自身に言っているのです。三川連の理事長でおられた頃は

もうお開きとなってからも、前に立ってずっとしゃべっておられました。それは愚痴のようなものも混じってましたが、常に反省がこもっていたように思います。喋れば喋るほど莫迦をさらけ出しているような気でもおられたのでしょう。

三十九ぐらいで歳は止めておく

 私はこの句をみるといつも笑ってしまうのですが、39歳になにかおもいいれがあるのでしょうか、39ぐらいがおかしいのです。39は40や35から見るとけっこうアバウトそれにぐらいをつけておかしさをにじませているようです。

トンネルは抜ける走ってさえいれば  たしかに努力を、怠るなの戒めですね

たぶんあなたも孝行はしていない  

しかたのないことさこの世でのことは

 軽く詠んでいますが、信さん節ですね。

天照らすも釈迦もイエスも拝みます

 プロフィールの「信さんと信仰」に書きましたが,奥様と二人の娘さんはけいけんな、クリスチャンでした。この句を詠まれたころは、信さんは宗教はなんだっていいと思っておられたようですが、2009年(平成21年)にキリスト教に入信されます。いろいろな葛藤がおありだったようです。身体が弱って行く以上に心が病んで行くことに、何かにすがりたかったのだと思います。

歩いてたんやで 昔の人はみな  これはいかにも信さんが言いそうです。

もらい泣きの涙は出てくるのですが 

タバコやめられて良かったなあ僕よ

自転車で来たやじうま本物だ

孔のあく程安藤美姫見つめたよ

フィギュアスケートを間近に見たのでしょうか。いきなり安藤美姫が出てきたときはびっくりしました。何億と女性がいる中で、よほどお好きだったのでしょうね。ほかにも

半井小絵も安藤美姫もきれいだね   という句もありました。これは本物だと思いましたね。ついこのあいだシングルマザーになってマスコミを騒がせたことを、あの世からはらはらしながら見ているかも分かりません。なお、この安藤美姫と並べて詠まれた半井小絵さんはNHKのお天気姉さんのことで、当時色っぽいとか人気がありましたね。ここにおいでの吉崎柳歩さんの句にも

洗濯日和ですと半井さんが言う  という句があります。半井さんもマスコミに騒がれ結局 辞めてしまわれましたが、美しい人は何かと話題になるようです。

 しかし、信さんも他の男性となんら変わらず、女性のことを句に詠んでおられます。

美しい人を見つめてなぜ悪い   えらい開き直っています。

セクシーな人だったので忘れない そりゃそうでしょう。

君が美しいのは僕がいるからだと思う これは、この自信はどこから来たのでしょう。信さんにしては珍しい句です。  

 など、「数え歌」のなかにごろごろこういう句がありました。ところで、私は信さんの告別式に出ましたが、奥様がどの人かよく分かりませんでした。どなたかの手記におきれいなかただと書かれているのを読みました。信さんよかったですね。

柩に寝てからみんな気付くのだと思う

 キリスト教の葬儀は生まれて初めてでしたが、なんとなく信さんらしくなくて、落ち着きませんでした。でも、柩の中の信さんはとてもおだやかで本当に寝ているようでした。なにに気がつかれたのかおききしたかったです。

うしろに目が付いてないのは救いだな だれもが思うことをひょこっと句にされています。

十二月これでやめたろかと思う 人間ですから意見の違いや思い通りに行かないことも多々あります。近詠を詠む時ふと何か腹が立ったりすると、その勢いで句にしてしまうことがあります。信さんのこの句もそういう類のものと思っておきましょう。

花の涙に誰も気付いたものはない

不倫とは言わずほんとの恋と言う  この二つの句は、ちょっと異色の信さん。あとで読まれて「きざだなあ、僕」とつぶやかれたかどうか

 

  

 母の句は、思ったほど無くて、この3句だけあげました。

逝く母の故郷は遠い相馬節

 信さんはというより、男性は産んでもらったお母さんが好き。お母さんが亡くなったとき、そうそうは里帰りが出来なかったであろうことを、お母さん目線で詠まれています。

お母さんのいきざまはテレビ番組の「おしん」そのものだったと信さんは書いておられましたが、そういう時代でもあったのでしょう。

名工といわれた日亡母と語り合う

 信さん自身も人に言えない苦労を重ね、昭和60年には卓越した技能者に与えられる「名工」に選ばれました。その日、一番にお母さんに報告されたのでしょう。お互いに苦労が報われた一瞬だったのではないでしょうか。

「このお金ツこてクダサイ」置き手紙

 明治29年生まれだったお母さんは生みの親と育ての親がいて、複雑な家庭環境の上、小学校四年くらいしか行ってなく、ほとんど文盲(もんもう)に近い人でした。

この置き手紙は、信さんが30歳を過ぎていたにもかかわらず、しばらく家を留守にするお母さんが、信さんのために千円札を二枚と一行の手紙を残していかれたのでした。信さんは、自分がなかなか結婚もせず家にいることを親不幸ものに思えて泣いたそうです。

その新聞の広告の裏に書かれた一行の手紙をボロボロになるまでもっていたそうです。

 

次は反戦の句です。

歌よ旗よ償いはもういいのかい

 歌は君が代、旗は国旗ですね。戦争だったのだから仕方がないと思っている日本人が多いように思いますが、心の底から謝罪する気持ちが無い限り、本当の意味での戦争は終わらないような気がするのですが 。

観光旅行でヒロシマを見るのかい

 どちらも問いかけになっていますが、僅かな予科練時代にみた生生しい殺し合いに、平和になればなるほど信さんは、戦争をすっかり忘れてしまったような社会への批判をされています。

特攻の墓標よ許せレジャー基地

 特攻隊として命を捨てて守ろうとした国土が、レジャーの基地となっていることにも、胸を痛めています。

おやくにんさまあ おらの血でねえけそれは

敗戦でなく終戦と教えられ

ぶん殴られながら少年兵でした

 どの句も、経験をして生涯忘れることの出来ない思いがくすぶっています。あまり政治的なことは言いたくありませんが、今こういう信さんのような悲惨な経験をした人たちが、今の若者に戦争の無惨を伝えていかないと、取り返しのつかないことになりかねません。

息子を3人もつ身には、何とかしないといけないと最近特に思います。

最後のこの句はみなの代弁ですね

反戦デモ行ける自由を大切に

 大切に、にいろんな思いが込められているようです

家族の句はたくさんありました。お二人の娘さんのことはどんなに大切に育てられたかが、分かります。  

母が来た坂を娘は下りて嫁き

 伊勢の信さんのおうち近辺はずうっと坂道が続いて、この句の状況が目に浮かぶようです。信さんの奥様がどこのお生まれかは知りませんが、あの坂を上って信さんのもとへお嫁に来たのですねえ、

娘の父として男性を教えよう

 はは、これは少し笑えます。娘の父としていいお婿さんにであってほしいという願いがこもっています。裏を返すと、自分はあまりいい旦那さんではないと告白しているようなものです。

良縁だと思うダイヤがでかいから 信さんの単純な部分もあって面白いですでも

 なにより娘の幸せを願っておられるのです。

次女よおまえもかセーターなど編んで

 これもほどよい省略の聞いた上手い句だと思います。お姉さんのほうは3人の男の子を授かっておられると句集にもありましたが、妹さんのほうはどうなのか、伊勢の柳友に聞いてみましたら、「何人いるかは知らないけど、いることは確かよ、なにしろできちゃった結婚だったようだから」でした。さすがにこのことは句になっていなかったようです。信さんきっと度肝を抜かれたことでしょう。

 

次に可愛いが当たり前で嫌われる孫川柳の中で

抱きぐせをたっぷりつけて帰したる は面白いですね。娘の子ということで、これもゆるされることなのかもわかりませんが。  

敬老の日くらい顔を見せに来い  この句は、39ぐらいで歳は止めておくから見ると身勝手な句です。

とうさんは粉石鹸を入れすぎる

一事が万事、男親と言うものはこんなふうに言われ続けて、それでも嬉しそうな信さんが浮かびます。

かくして、大切に育てた娘さんたちは、幸せな人生を歩んでいらっしゃるようです。

 

そして妻の句に入ります。

妻の背を見てる裏切れぬと思う

裏切れないなと、わざわざ思うところにこの句は危なさを物語っています。信さんはどことなく惚れっぽいところもおありだったから、ときどきは奥様の背中にお詫びを言っていたかもしれません。

妻の掌を逃げると河に落ちそうで 河に落ちるがありそうです。 

モテナないことを知っているいまいまし 奥様が一枚上手です。

忘れてくれる妻がいるので救われる

 結局は奥様の目の届く範囲でのお遊びだったようです。しかし、信さんは

祈り持つ妻は嘆きを口にせず

 ずっとクリスチャンでおられた奥様の深い信仰心に尊敬をされてもいました。

アラ嫌だ来世もあたしとだなんて

 実際こんなことを言われたらきっと落ち込んだのではないでしょうか。男とは、弱いもの、そんな気がします。さっきも出ました伊勢の柳友が言うには、信さんが亡くなってスーパーで奥さんにお会いすることが度々あるけど、それはそれはお元気ではつらつとしておられる ようなのです。

 申し訳ないけど、逆だったらとても信さんは耐えられなかったことだと思います。

妻の句の最後は

妻を裏切る心も実は持ってます。

など見栄を張っておられますが、実際は多分出来なかったのではないでしょうか。

 

金銭的な句かなりありました。共感を呼ぶ句が多かったのですがほんの一部抜粋しました。

年金で充分食える顔をする

 番傘の同人、三重番傘の会長とはばひろい交際もあったでしょうし会費も馬鹿になりません。娘さん二人ということで目に見えない出費はかさんだことでしょう。世の旦那様が自由に出来るお金ってそうはないとおもいますがさてどうでしょうか。

充分食える顔…川柳ですねえ。苦しい笑いを誘います。

当たったらひっそり生きていくつもり  

宝くじですね。宝くじの句もおりおりにけっこうありました。密かに買っておられたようです。もし当たったら絶対内諸に出来ない、そんな信さんを誰もが見抜いていますよ。

お金では「失礼になる」ことはない

この句にもエピソードがありました、資料3ページ目の「人と句」の三段目にかいてあります。「数え歌」は発刊記念の大会当日、参加者全員に謹呈されました。私ももちろん貰って帰りましたが、当時主人の母が腰の骨を骨折して入院していました。見舞いに行き読書好きの母でしたから、何の気なしに「川柳の本読む?」と聞いたら読みたそうにしました。あとで返してもらうつもりで置いてきたら、気にいってしまったようで返してくれと言いにくくなりました。困り果てて信さんに訳を言ったら、もうほとんど残っていないと言いながら、信さんが多分自分用に残したものをくださいました。訂正ページがあったのでそれが分かりました。あまりに申し訳ないので本代を失礼かも分かりませんがと一筆添えて送りました。するとやはりすぐ電話が来てこの句を 口ずさんでくれたのです。

  お金では失礼になることはない  と。

習っておきなさい松茸料理だとしても

 私が信さんの句の中で一番好きな句です。だとしてもの下五がなんともいえない、おかしみとおとぼけを醸し出しています。父親としての信さんの娘さんたちへの接し方、思いがぎゅっと込められているように思えます。

つりは要りませんおかしな人もいる

確かに、あれってなんなのでしょうね。タクシーに乗っても「あ、つりはいいからね」と言う人いますね。けっこうそういう人が多いのか、滅多に乗らないのですが、1990円のところを2000円払ったら、運転手さんに妙な間が感じられました。降りずに待っていたら10円渡してくれましたが、みなさんだったらどうですか?

 

信さんの句堪能していただけましたでしょうか。最後の五句は、二枚目好きの信さんがほんの少しの間、たかくらけんとして句を出されたうちの怒りの句です。

みんな死んでらあ10年後の隣組

歳月や高倉健の頬に皺

 二枚目も隣組も歳月には勝てません。ペンネームを多加倉健として、平成14年に三重番傘に突然現れたそうです。最初はすぐに分からなくて、そのうち少し騒がれ、伊勢の寺前みつるさんが気がつかれたようで、「多加倉健さんは大スター」と称してエッセイまで書かれました。お茶目さを発揮されました。

過保護だからな騎馬戦すぐ終わる

一事が万事ですね。こういう仕立て方ほんとに上手いと思えます。

それはそれは立派原発点検簿

だけど、点検だけしたって何もよくなってないではないか、信さんのぼやきがコダマのように聞こえてきます。

昔から神話はどうも嘘くさい  

早くから「原発神話論」を怪しんでおられました。もっと長生きをして吠えていただきたかったです。

 

最後に二枚、信さんへの追悼の言葉を信さんの近くにおられた川柳仲間が書いておられましたのでコピーしました。追悼文には亡くなった人への思いが表れ、亡くなった人の生き様が浮かび上がるものと私は思っています。「傘のしずく」は三重番傘の柳誌の巻頭言です。信さんのあとを会長になった伊藤 忠昭さん。信さんは自分が守って来られた三重番傘をきちんと後任にバトンを渡して旅立っていかれたことは本当にえらいと思いました。三川連の理事長も、朝日柳壇の選者も、きれいなリタイアでした。

次に坂倉 広美さんの「矢須岡信さんを憶う」も一ページに信さんの歴史を余すことなく書いておられます。二ページ目の訓恵さん、賀信さん、伴久さんとそれぞれの持ち味で、淡々と手記を寄せられていますが、信さんが、すぐそこで笑っておられるような文章です。

何も心を打つ言葉は使われていないのに、やはり川柳を書く人は文章も上手いと思いました。賀信さんの最後の一行、身の丈を育てて頂き有難うございました と、伴久さんの最後の二行「先生は私より8歳ほど若かったのに…今頃はあの世の句会であれこれくさしているのではなかろうか  アーメン 」 など長く親しくしていたからこそ書ける文だと思いました。ぜったい信さん空の上から、「もうちょっとマシな文章かけないのか」と苦笑いしていそうです。

何ごとにも一生懸命で、どっぷりと川柳につかった人生でした。信さんが生きていらっしゃる間に、もっと信さんの事を知っていたら、もっと違う接し方が出来たのではないかと思えてなりません。追悼文の伴久さんではありませんが、信さんどうか安らかにアーメン…と申して信さんのお話を終わりたいと思います。お聞きくださいまして有難うございました。

資料  矢須岡信の句                             5

 

・自分を見つめた句

莫迦な自分にずいぶんと教えられ 「数え歌巻頭の句」

こたえたなあライバルがハンサムで

脚の短い僕にダンスはセクハラだ

まる見えになるから少しお黙りよ

三十九くらいで歳は止めておく

トンネルは抜ける走ってさえいれば

たぶんあなたも孝行はしていない

仕方のないことさこの世でのことは

天照らすも釈迦もイエスも拝みます

歩いてたんやで 昔の人はみな

もらい泣きの涙は出てくるのですが

タバコやめられてよかったなあ僕よ

自転車で来たやじうま本物だ

孔のあく程安藤美姫見つめたよ

柩に寝てからみんな気付くのだと思う

うしろに目が付いてないのは救いだな

十二月これでやめたろかと思う

花の涙に誰も気付いたものはない

不倫とは言わずほんとの恋と言う

 

・母の句

逝く母の故郷は遠い相馬ぶし

名工といわれた日亡母と語りあう(昭和六十年 県・現代の名工に選ばれる)

「このお金ツこてクダサイ」置手紙

 

・反戦の句 (政治不信含む)

歌よ旗よ償いはもういいのかい

観光旅行でヒロシマを見るのかい

特攻の墓標よ許せレジャー基地

おやくにんさまあ おらの血でねえけそれは

敗戦でなく終戦と教えられ

ぶん殴られながら少年兵でした

反戦デモ行ける自由を大切に

・家族の句                              6

母が来た坂を娘は下りて嫁き

娘の父として男性を教えよう

娘を託すその肩幅を信じよう

良縁だと思うダイヤがでかいから

次女よおまえもかセーターなど編んで

敬老の日くらいは顔を見せに来い

とうさんは粉石鹸を入れすぎる

日本のため三人は産みなさい

抱きぐせをたっぷりつけて帰したる

 

・妻の句

妻の背を見てる裏切れぬと思う

妻の掌を逃げると河に落ちそうで

モテないことを知っているいまいまし

忘れてくれる妻がいるので救われる

祈り持つ妻は嘆きを口にせず

アラ嫌だ来世もあたしとだなんて

妻を裏切る心も実は持ってます

 

・金銭的な句

年金で充分食える顔をする

当たったらひっそり生きていくつもり

お金では「失礼になる」ことはない

習っておきなさい松茸料理だとしても

つりは要りませんおかしな人もいる

 

 

・多加倉 健の句 (怒り)

みんな死んでらあ10年後の隣組

歳月や高倉健の頬に皺

過保護だからな騎馬戦がすぐ終わる

それはそれは立派原発点検簿

昔から神話はどうも嘘くさい